観阿弥と世阿弥の利用の仕方?

 質問を頂いた、伊賀観阿弥説。

 観阿弥が南朝の血縁を引き、その縁で一座を伊賀で立ち上げ、
その子どもの世阿弥は足利幕府と対立することとなり、それで佐渡に
流され、その後、南朝の血を引く一休にお世話になったと云う、
流れがスッキリしていて大変面白い。

 説を主張し支持に登場する人物は鹿島 守之助(旧姓永富)、
平泉 澄、白洲 正子である。

 わたしは平泉 澄(一八九五年‐一九八四年)の著作を高校の時、
学校の推薦本である『物語 日本史』を読んだ、一九七〇年である、
国体擁護の本、大日本帝國はその根拠を神話に求めたが、平泉 澄は
歴史に求めていた、しかし、天皇自身の「人間宣言」でその二つの根拠は
崩れ去った。

 鹿島 守之助(一八九六年‐一九七五年)は鹿島建設会長で名前が
知れわたっている、参議院議員を引退したのが一九七一年だった、
その三女と結婚したのが平泉 澄の息子の渉である、平泉 渉は
七一年当時参議院議員だったので、鹿島 守之助と平泉 澄は親戚関係
になる。

 それと白洲 正子(一九一〇年‐一九九八年)。

 経過は鹿島 守之助の実家永富の、書きもからであるが、
そこに平泉 澄と白洲 正子が登場するのである、わかるのは永富も
平泉も旧家、白洲は旧華族だ、そして選挙と血の繋がりである。

 が臣民に広がったのは昭和に入ってからだ、当時、能が「日本的なもの」
として利用できたからだ、建設業はどうなんだろうか、実家を権威付け
建物の受注などが推測できる、歴史学者では国体を歴史に根拠
おくとすると南朝になるが、為政者はわれわれが思いよらないことを
思いつくもんだ。(つづく)

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