個人は個性を持っている

 中国古典の論理と自然・社会・人間をひとつながりとしての見方、西
洋の人々とその集合体の持っている主体的権利、西洋でいう「弁証法」
について記してきた。

 かって中国は「礼」を文明の基準とした、ヨーロッパは「時間」を文明の
基準とした、それぞれ「生命に対する礼」と「クラシック音楽」など使える
ものがある。

 しかし、日本語で「国民」を例えにとると、中国などは「国民」という団体
での平等の志向となり、ヨーロッパでは「国民」の構成要素としての「個
人」となり、そこには個性がない。

 あるのは「社会」である、それはペストを経験したからだ、ペストに罹る
人もいるし、罹らない人もいる、だけどヨーロッパは「社会」を守ろうとして、
「国民」あるいは「社会」という大きな塊りで捉えていった、「時間」の文明は、
「社会」という大きな塊りで捉えているので、個性を持った個人を発見でき
ないでいる。

 幕府には「社会学」がなかった、幕府の留学生は留学先で「統計学」を
「国を治める学問」として身に付けて帰国した、これが「公衆衛生」として
中国に渡った。

 自然は体に均等に現れる、それは個性をもった個人として、その個人が
「大同」の生活をし、その集合としての「公」を構築する、その手法は「人類
普遍の原理」になる。(つづく)

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